世界三大宗教 仏教編

世界三大宗教」重要ポイント83 三笠書房 
を読んで興味深い部分を列挙する

■仏教
P117<仏教の柱となる教え>
「この世にあるすべて事物は永遠に存在するものでなく、常に変化している。すべての事物は必ず何かの縁によって生まれるため、単独で存在しているものは一つもない。また、必ず他との関係性を持っているので、自分(のもの)という存在もない。ところが、人は自分が永遠に存在すると思い込み、すべてを自分のものにしよう、自分の思い通りにしようとする。だから、この世のすべてを苦しみに感じるのである。」
こういった万物の心理を知らないから、あるいは素直に受け入れようとしないから、人はなんでも思い通りにしたいという煩悩にとらわれて、自ら苦しみをつくり出してしまうのである。つまり万物の心理を知り、自分の煩悩を断つことができれば、全ての苦しみはなくなり、これまでとは違う究極の静かな安らぎの境地を得られるはずだ。

この真理は仏教の教えの基本となり、中国へ伝わると漢語にまとめられ、日本へ伝来し、今も大切な教えとされている。

(1)諸行無常
すべてのものは、必ず変化し、常に同じものとして止まらない
(2)諸法無我
すべての存在は、必ず他との関係性によって生まれている
(3)一切行苦(いっさいぎょうく)
この世のすべてのことは、自分の思い通りにならない
(4)涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
仏の智慧を学び実践し、到達する悟りの世界は、心静まった安らぎの境地

輪廻転生は、もともと仏教の思想ではなく、古代インドに存在した思想である。釈迦が説いたのは輪廻の世界すべてを「迷いの世界」と明確に位置付け、「ほんとうの幸せはその世界を解脱したところにある」と説いたことである。
わかりやすくいうと、そうした輪廻の世界にいては、本当の幸せは得られない。輪廻とは、人間は自分の善悪の行いによって死後に生まれ変わる世界が変わること、そうした生死を永遠に繰り返すことである。たとえ天道(神々の世界)に生まれても苦しみは存在し、必ず死は訪れる。しかも天道でも悪いことをすれば、死後に別の世界へ生まれ変わってしまう。つまり、輪廻の世界にいる限りは、苦しみは永遠になくならないというわけだ。
釈迦はそのことに気付き、そうした輪廻の世界から抜け出すことこそが、わたしたち人間がほんとうに苦しみから解放されることだと悟り、それを「解脱」と呼んだ。釈迦はそのための方法を「法(ダルマ)」としてまとめ、それを教えとして説いたのだ。

P214 <仏教の経典>
同じ教えでもきく人の能力に応じて様々な「方便」(仏が衆生救済のために使う手段で、例えや仮の話を用いること)があり、大乗仏教の経典には方便として実に多くの菩薩が登場する。ブッダは三世(さんぜ)(過去・現在・未来)十方(じっぽう)にそれぞれに存在すると考えられるようになり、中でも阿弥陀仏や薬師仏などが熱烈な信仰を受けるようになる。さらに、慈悲ゆえに自らはあえてりんねから解脱しないで衆生を救済し続ける存在として、観世音菩薩(かんぜんのんぼさつ)、文殊菩薩弥勒菩薩(みろくぼさつ)など数々の菩薩が生まれたという教えが説かれた。

釈迦の説いた仏教はシンプルに言うと仏教の教えを学び、それを基にして自分の心や行動と対峙し、日常生活で実践して自らの苦しみを解放するというものだった。つまり人間も努力することでブッダになれるという考え方だ。

一方日本に伝わった大乗仏教の基本は、釈迦を人としてみるのではなく、「如来」「菩薩」という言葉を用いて超人的あるいは神格的存在とし、その大いなる慈悲の心や大衆を救済する力を崇拝して、自らはその偉大な力によって助けてもらうことを願いとする考え方である。

P216<法華経
日本へ最も影響を与えた経典が「法華経(正式には妙法蓮華経)」である。法華経とは、簡単に言うと「すべての法はすべての大乗の教えであり、久遠実成(くおんじつじょう)(仏<ブッダ>とは永遠の生命そのもの)である」という教えを説いた経典である。中国では「経典中の王」と呼ばれる。
日本で初めて法華経の教えに影響されたのは聖徳太子だが、今日の日本仏教の基礎としたのは最澄である。
そのきっかけは、中国天台宗の開祖とされる智邈(ちぎ)。中国に伝来した仏教の教えは、実は時系列通りに伝わったわけではなく、様々な時代の経典がばらばらに伝播された。その複雑な状況を解決するために智邈は、経典の格付けを初めて行ったのである。
これを学んだのが最澄で、天台宗(正式には天台法華宗、806年)を開き、比叡山延暦寺を建立した。

P218<南無妙法蓮華経南無阿弥陀仏の大きな違い>
法華経が日本の仏教で最高経典と位置付けられた理由は、その経典名にも由来があるといわれている。蓮華とは蓮の花の花のことで、仏教では仏陀を象徴する花とされている。というのも泥水の中から美しい花を咲かせる蓮の花は、数多くの煩悩を持つ人間の中にあっても悟りを開いたブッダと同じイメージ感じさせるからだ。この経典には、釈迦の偉大なイメージが豊かに説かれていることから、頭には漢語で「素晴らしい教え」という意味の”妙法”がつけられ、「妙法蓮華経」という題目の最高経典とされたのである。

妙法蓮華経の教えの中には「久遠実成」と呼ばれる説があり、歴史上初めて仏教の悟りを開いたとされる釈迦は仮の姿で、ほんとうは遠い昔にすでに悟りを開いて成仏し、それ以来仏として人々に教化を続けているのが、真実の釈迦の姿とするものである。このように、法華経が仏教の開祖である釈迦の存在を完全に超人化させた教えを説くことで、他の経典にどんな仏や菩薩が出てきても釈迦と関連付けることが可能となり、また「方便である」という一言で、すべて納得して理解することができるからである。
これにより天台宗法華経を中心に仏教の教えが学べる修行道場として発展した。

しかし、平安時代後期から鎌倉時代になると、武士が勢力を強めて社会情勢や治安の不安が増大、その影響から世間には末法思想や厭世思想が急速に広がり、既存の天台宗の教えや密教の教え以上に、より大衆を救済できる仏教の教えが求められるようになった。

その社会の要求に応じたのが、比叡山で修業した法然親鸞である。彼らは天台宗にある膨大なお経の中から、阿弥陀仏という釈迦以外のブッダの存在と、その素晴らしい特徴に注目した。それは、阿弥陀仏がすべての人を救済するブッダであること。阿弥陀仏を信じて「南無阿弥陀仏阿弥陀仏に帰依します)」と念じた人には、阿弥陀仏自身がその願いに応えて、自らの悟りの世界である極楽浄土へ生まれ変わらせるということだった。
この阿弥陀信仰はもともとインドで生まれ、中国で浄土教として成立しその教えが日本に伝播されたものである。阿弥陀仏の浄土に往生するための経文には、極楽の荘厳さと地獄の様相が説かれていた。そして往生するためには、具体的に極楽浄土や阿弥陀仏をイメージする観想念仏を実践することが大切だと教えている。
ところが、この時代の大衆は文字の読み書きができない人が多く、仏教に対する教養がなかったことから極楽浄土や阿弥陀仏のイメージがなかなかできなかった。そこで、後に天台僧になる空也(くうや)が「南無阿弥陀仏」と口で唱えるだけでいいというスタイル(口称念仏)を提案し、踊りながら念仏を唱えて初めて大衆を教化した。
法然は、空也の念仏信仰をただ一心に唱えるというスタイルで引き継ぎ、「阿弥陀仏はすべての人を救うのが本願なので、ただ一心に念仏を唱えるだけでいい」という教えを説き、浄土宗を開いて大衆念仏信仰へと導いたのである。
また、法然の弟子親鸞によって更に大衆化が進められる。彼は「念仏を唱えるから極楽浄土へ成仏できるのではなく、私たちはすでに阿弥陀仏の力によって極楽へ行くことは決まっている。その感謝のために念仏は唱えるもの」という教えを説き、すべての人がすでに阿弥陀仏の慈悲によって救われているという独自の念仏思想を確立。その教えを受け継ぐ浄土真宗は、現在でも日本一の信者数を誇っている。

一方、この念仏に似て非なるものが、「南無妙法蓮華経」である。日本ではさまざまな宗派がそれぞれの仏教の教えを説いているが、一向に平和にならない。真の仏教は、やはり最高の経典の法華経にある。今こそ法華経を中心とした教えを説かなければ、日本に平和は訪れない。こう考えた日蓮は、既存の日本仏教の教えはすべて間違っていると確信し、法華経の教えだけが人々を救えると主張した。そして、法然と同様に文字の読み書きができない大衆を教化するため、「南無法蓮華経という題目を唱えるだけで、人は救われる」という極端な教えを説いたのである。日蓮が提唱したこの教えは、日本独自の新たな仏教思想であったため、日蓮宗と名付けられた。

「南無法蓮華経」「南無阿弥陀仏」の二つの信仰の世界観は大きく異なり、相容れない教えである。

P237日本人が仏教を自分の宗教だと思わない理由
今日でも日本人の多くは、葬儀や供養を仏式で行い、仏に手を合わせる。ところが「儀式としてやっているだけで、仏教とではない」とする人が少なくない。こうした現象は世界広しといえども日本人だけのようだが、そのきっかけは江戸時代の「寺請(てらうけ)制度」にあるといわれている。江戸時代にキリシタンを禁圧一掃するために行われた宗教政策で、檀家制度(一家が必ず地域に存在する一定の寺院の檀家となって自らの家の祖先供養をしてもらうとともに、布施をして寺院の財政を助ける制度)とともに全国的に制度化された。このとき、仏教は事実上国教化し、すべての日本人は強制的に仏教徒とされたのである。寺院は今でいう役所の戸籍課のような体制的役割だったわけである。そのためこの時代以降の日本人には「宗教を信仰する」という意識が芽生える前から「信仰にかかわること、死に関わることはお寺へ…」という認識が寺院に対して根深く植え付けられ、それが200年以上も慣習として続いた。これが「仏教の信者」の意識がなくても仏に手を合わせ拝み、死後の儀式を寺院で行うという、日本独自の不思議な信仰形式をつくりだしたのである。